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冬の効能
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あー寒いなぁ、と呟きながら姫乃は空を仰いだ。

色の薄い青空に掃いたような雲が幾筋。落ちてくる寒気に頬がぴりぴりと引きつる。東京に吹き付ける風は近頃ますます冷たくなった。ひゅうと通り過ぎるたびに思わず肩を竦めた。

2月も半ばを過ぎたというのに、春の気配はまだ見えない。

右手に提げた買い物袋を持ち替えると、姫乃は冷え切った指先を口元に寄せた。吹きかけた吐息は薄煙のように白く広がり、拡散して消えていく。

「ひめのん、寒い?」
「あ、ううん。大丈夫だよ」

同じように買い物袋を抱えた明神が、空いている手で姫乃の手に触れる。

「うわっ、ひめのんすげー冷たいよ、手」
「明神さんこそ指先冷たいよ!」
「手のひらなら大丈夫」

ほら、と指先が当たらないよう気をつけながら、彼の大きな手が姫乃の手を包み込む。じんわりとした人肌の温もりが心地よく、思わず口元が綻んだ。

「やっぱ手袋買えばよかったなー」

荷物を足元に置いてしまうと、明神は両の手のひらで姫乃の手を挟み込む。彼に倣って姫乃も買い物袋を置くと、彼の指先に左手を添えた。予想はしていたが、明神の指先もだいぶ冷たくなっていた。

「明神さんが『手袋なんていらない』って言ったんじゃない」
「違う違う、ひめのんの分をね」

人通りが少ないとはいえ、道端で手に手を取って見詰め合う二人の図は、ひょっとしなくても十分怪しいだろう。エージに見つかったら間違いなく鼻で笑われ茶化されるだろうし、ガクりんにでも目撃されたら明神は巨大化したピコピコハンマーを容赦なく食らう羽目になるだろう。
そんなことを思い、姫乃は小さく笑った。

理由は何にしろ、こうやって明神と触れ合える時間がとても嬉しくて仕方なかった。うたかた荘には四六時中誰かしら居るし、明神の仕事柄、姫乃の生活サイクルと大きくずれてしまう事は多分にある。まともに会話できずに一週間ほど過ぎてしまう事だって珍しくない。

だからこそ、こんな風に二人きりになると、姫乃は明神にものすごく甘えたくなる。
寒いなぁ、とわざわざ口にするのだって、そう言えば明神が両手で暖めてくれるからだ。手袋をしない理由も、本当は明神と触れ合える大義名分を一つでも増やしたいがため。

このオトメゴコロを知ってか知らずか、当の明神は冷え切った空を仰ぎ見ていた。

「こう寒いと、春が待ち遠しいねぇ」
「ホントですね。早く暖かくなればいいのに」
「日が暮れるのも早いしなぁ」
「この時間でも薄暗いもんね。みんな心配してるかなぁ」

そうかもな、と言いつつも、明神は動く気配を見せない。姫乃ももうしばらくこの状況を楽しみたくて動かない。
頬を切る風はどんどん凍てつくし、つま先も冷え切っている。うたかた荘に戻れば暖かい部屋が待っているのが分かっているのに、どうしてもこの場を離れるふんぎりがつかない。

「ひめのん、寒くない?」
「え? あ、うーん・・・・・・ちょっと寒い、かな」

早く帰ろう、と促されるのだろうか。もうちょっとだけこのままでいたかったなぁ、と内心残念がっていた姫乃は、次の瞬間視界を覆った黒に吃驚した。
背中まで覆われるぬくもりと、身体に回された彼の腕の感触で、いつかのようにコートの中へ閉じ込められたことが分かった。いきなり押し付けられた厚い胸板に、姫乃の心臓がどぎまぎする。

「ちょっとだけ温まろっか」
「明神、さん?」
「ちょっとだけ温まったら、ダッシュで帰ろう」

ぎゅうっと抱きしめられ、吃驚して強張っていた身体から、すとんと力が抜けていく。次の瞬間、こみ上げてきたのは面映い幸福感。思わず緩む口元をごまかすように、姫乃も明神の身体に両腕を回した。

洗いざらしのコットン越しに感じる明神の温もり。ぺったりと耳を当てればとくとくと流れる鼓動だって感じられる。
この腕の中には冬の寒気すら入り込むことはできない。その上、こうしていれば彼がどんなことからも守ってくれるのだから、何よりも安全かつ幸せな場所だ。

姫乃ははんなりと微笑う。

もとより、姫乃は冬が苦手だった。とにかくすごく寒くて、朝も起きるのもすごく辛くて、お皿洗うときのお水も指が凍りそうなくらい冷たいし、風が痛いくらい冷たくて外に出る用があるたびにげんなりしていたものだけど。

明神にあえて、その認識ががらりと変わった。

冷たい空っ風は彼の傍に寄り添う理由になるし、手袋をしない指先を彼が温めてくれる。水仕事をした後、ご苦労様ーとか、冷たかったでしょ、とか言いながら真っ赤になった手を擦ってくれたり、寒そうだねって言いながらこんな風に自分を包み込んでくれたり。

ずっとこのままで居たい心地よい場所も、すべて冬がもたらしてくれたもの。それは、これ以上ないくらいに姫乃を幸せにする。

−−−そう言えば、彼の髪も、名前だって。

「冬の使者みたいだね」
「ん? 誰が?」
「冬悟さんが」

ふふっ、と姫乃が微笑む。見上げれば、目を見開いて驚いている彼の顔がすぐ傍にある。

「明神さんのおかげで、冬が好きになっちゃったかも!」
「ひめの・・・・・・うわっ」

えいっと勢いをつけて、姫乃は明神から両腕を離す。その反動で明神のコートがばっさと音を立てて翻った。呆然とする明神の目の前から姫乃は自分の手荷物をすばやく拾い上げると、数メートル先まで駆け、振り向いた。

「どっちが先につくか競争ね!」
「ひ、ひめのん?」
「ほーら、ダッシュだよ、明神さん!」

よーいドン!と姫乃は走り出す。慌てて明神も買い物袋を引っつかんで後を追う。走りながら二人は知らず知らずのうちに笑い出していた。

「明神さんっ」
「なんだい、ひめのん」
「また一緒に買い物行こうねっ」

もちろん、と明神が頷けば、姫乃も嬉しそうに微笑む。


来年からは、冬は待ち遠しい季節になるに違いない。

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