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宵闇の花
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ただいまーという声が玄関から聞こえた。管理人室で昼寝していた明神は眠い目を擦りながら身体を起こす。窓から流れ込む夕焼けの赤が万年床を朱色に染めていた。・・・・・・もう夕方か。枕もとの目覚まし時計を探そうと身体を捩じったら、丁度タイミングよくドアがノックされた。

「明神さん、起きてる?」

姫乃の声だ。もう学校から帰ってきてたのか。

「今、起きた。・・・・・・ごめん、今何時?」

「もうすぐ6時になっちゃうよ」

・・・・・・そりゃ流石に帰ってるよな。ドアの向こうで彼女が小さく笑う声がした。流石に寝すぎたなぁと軽く伸びをして、明神は管理人室のドアを開けると、姫乃は微笑みながら明神を見上げていた。

「オハヨウゴザイマス。起きたついでに散歩でも行きません?」

「・・・・・・もしかしてそれはスーパーまでの往復なのかな?」

「今日はセールの日なんですよね」

毎月、1のつく日は精肉・青果のセールなのだという。ちなみに鮮魚は5のつく日だとか。姫乃はどこぞの主婦顔負けだな。

「分かった。じゃあひめのんの買い物に付き合うよ」

「違いますー。明神さんと散歩なのっ」

うふふっと可笑しそうにはにかみ、彼女は着替えてくると自室に戻っていった。ぱたぱたという軽い足音が遠ざかっていくのを聞き届け、明神はぼさぼさの頭を手櫛で整えた。寝癖が酷いのはいつものことだ。

共同リビングでは珍しくエージとツキタケが並んで夕方のニュースを見ていた。・・・・・・あぁ、野球のデーゲームの速報を見てるのか。そういえば、最近仲いいな、こいつら。

「エージ、アズミはどうした?」

「あー、なんかコクテンと一緒に『可愛いもの』がどうたらこうたら言って出てったぞ。そういやゴウメイもおっさんも連行されてったな。・・・・・・つーか、今起きたのかよ明神、もう夕方だぜ?」

「分かってる、寝すぎた。・・・・・・ガクたちは?」

「アニキなら例のごとくグレイと飛び出していきましたよ。そこの窓ぶち破って」

ツキタケが指差した先には、原型を留めいていない窓枠と縁側に散らばったガラスの破片がきらきらしていた。あぁ、またかよ。だから家の中で暴れるなと何度も言っているのに、やつらは学習能力ないのか? 修理代もタダじゃねーんだぞ。

悪態を付いたところで本人たちが居なければ意味は無く、明神は肩を落として嘆息するに止まった。

夕日を浴びて光が乱反射する濡れ縁には、白い花弁も入り混じっていた。近所にある桜の樹木から舞い落ちたのだろう。風が吹くたびにくるくるとそれらが舞い踊った。見れば所々剥げた下生えの緑にもその白が浮かんでいた。清々しいそのコントラストに目を細める。

春だなぁ、と明神は思う。そういえば、姫乃がうたかた荘に来たのも春だった。・・・・・・そうか、彼女がここに来てもう丸一年が経ったというわけか。

姫乃との出会いを思い出せばうっかり苦笑してしまう。家出娘かと思って声をかけたら痴漢呼ばわりされ、彼女にまとわり付いていた流仙蟲を退治するために追いかけて、ようやく始末つけて路地裏で別れたのに真夜中のうたかた荘の前で再会して。あぁ、今思えば何てめまぐるしい一日だったんだろう。・・・・・・けれど一生忘れられない日になったのも確かだ。

あの日も桜は咲いていただろうか。よく晴れた青空は覚えているが、連なった小さな花々を思い出すことができない。高校の入学式の時には染井吉野がぱらぱらと散り始めていたから、多分咲いていたんだろう。・・・・・・機嫌を損ねていた姫乃がようやく微笑った時、あんまり可愛くてオレもなんか幸せな気分になってたよなぁ。

どっぷりと自分の思い出に浸っていた明神を、エージは不気味なものを見るような目で見上げていた。

「・・・・・・気持ち悪ぃぞ、明神。ニタニタすんなよ」

「ダンナ、口半開きであっちの世界行くのはちょっと・・・・・・」

「ついでにそこどけ、テレビがよく見えねぇだろ。・・・・・・あ、ヒメノ」

年少組に随分と酷い言われようだ。それに反論する前に着替え終わった姫乃が戻ってきてしまった。

「お待たせー。さ、明神さん行きましょっ」

「気をつけろー姫乃。こいつ、さっきすげーアホ面晒してたぜ」

「アホ面とは失礼だなっ!オレのこの顔は生まれつきだっ!」

「じゃあ締りの無い顔って言えばいいか?」

へへん、と人を小馬鹿にしてエージが嘲笑う。おのれと文句をつけようとしたら、横から姫乃に腕を引かれてしまった。

「ほら、明神さん早くっ!タイムセール終わっちゃうよぉ」

・・・・・・お前ら後で覚えてろよ、と明神は小さく吼えた。




鶏肉や豚肉をまとめ買いし、野菜のついでに消耗品の買い足しもしたせいで、明神も姫乃も両手に荷物を抱えて歩く羽目になった。重いものはほとんど明神が持っているとはいえ、それでも彼女の細い腕には余りあるものに見える。半分持とうか、という申し出は「その状態でどうやって持つんです?」と笑われ丁寧に辞退されてしまった。確かにその通りではあるので、明神も手荷物を抱えなおして帰路を歩く。

河川敷の土手は桜が満開だった。白い花は燃えるような朱色に染まっていた。恐ろしいくらいに美しい色だった。風が吹くたびに枝が揺れ、はらはらとその朱の花びらが散っていく。自分たちの影の中に落ちてようやく彼らは本来の白に戻っていった。

「・・・・・・すごいね、桜」

「あぁ、そうだな。そういや、うちの縁側にも花びら落ちてたわ」

「ここの花かな?」

「いや、流石にここは遠すぎだろう。多分、近所の公園のだ」

どちらともなく足を止め、空を仰ぎ見る。頭上の空は藍色に近かった。西にかけて朱色に広がるグラデーション。花はその中に浮遊するように咲き誇っている。よく見れば、花に隠れるように細い刃のような月も浮かんでいた。

明神はまた先程の回想を思い出していた。1年前はこんな風に肩を並べて花を見上げるような仲にはなっていなかった。ようやく姫乃が打ち解けてきた頃には桜は散った後だった。まだ管理人と住人、案内屋と霊魂の見える少女というだけの関係だったから当然といえば当然だ。あの頃は本当にそれだけの気持ちでしか姫乃を見ていなかった。

「・・・・・・去年の今頃も、こんなに綺麗だったのかな」

ぽつりと姫乃が呟いた。

「去年はどうだったろうなぁ、・・・・・・オレもあんまし覚えてないや。ひめのんもこっちに来たばっかだしな」

「そうなんだよね、なんかすごく忙しくて慌しくて、色んなことがありすぎて。・・・・・・気づいたら桜の花なんて散ってたと思う」

ちょっと休憩、と姫乃が遊歩道の端に買い物袋を下ろしたので、明神もそれに倣うことにした。今日は冷凍食品は買ってないから、少しはのんびりしてもかまわないはずだ。

姫乃はゆっくりと腕を伸ばし、そうして明神のほうを振り返って笑った。

「やっぱ綺麗だよねぇ、桜。日本人なら桜だよね、やっぱり」

「そーだなぁ」

「去年見逃したのは残念だけど、また来年も見られるし! ね、来年も見に来ようよ、ここ。すっごい綺麗」

嬉しそうに花に見入る少女の横顔を、明神は目を細めて眺めた。彼女の髪に絡まった花弁を指先で軽く払い落とし、なんとなくそのまま黒い髪を撫でたら、姫乃は目を大きく見開いて明神を見上げる。その表情があまりにも幼く見えて、明神は思わず笑い出してしまった。

「ちょっと、なんでそこで笑うんですかっ」

「いや、ひめのん可愛いなぁ、って思って」

「子ども扱いしないでくださいっ!」

「実際子供だからなぁ、ひめのんは。・・・・・・来年もまた見に来ような」

「え?」

「来ないのか? ひめのんが言ったんだぞ?」

「あ、ううん。来るよ、絶対に来る! 明神さんと、一緒にっ」

慌てて明神の腕に縋りつく姫乃の必死さがあまりにも可愛らしくて、明神は肩を震わせて堪えていた笑いを押さえきれず、思いっきり吹き出した。

「〜〜〜〜〜〜っ、もうっ、明神さんったらっ」

「いやいや、うん、ゴメンっ。・・・・・・くくっ」

「笑いすぎですっ」

自分の荷物を引っ掴むと、姫乃は頬を膨らませたままずんずんと帰路を歩き出した。背中に「怒ってるんですからねっ」とでかでかと書いてある。あからさまなその態度に明神はまた小さく笑った。

夕闇に溶けても尚けぶる美しい花々を見上げて思う。・・・・・・来年はまだここにいてくれるのか。何故かほっとしている自分が可笑しい。その次があるかどうかは分からないけれど、とりあえずあと一年は彼女と共にいられる、ただそれだけの口約束に縋りついている自分が酷く滑稽だと思った。滑稽でもいいからこの約束が違えないで欲しいと切実に祈る自分は、他人から見たらどれほど愚かに見えるだろう。

去年の桜は多分もう思い出せない。けれど、今見上げるこの桜はおそらく生涯忘れないだろう。何十年経ったとしても色褪せず明神の胸の内に居続ける。姫乃の照れくさそうな笑顔や、からかったときに拗ねた顔や、怒って背を向けたあの後ろ姿と共に。

彼女を愛おしいと思うこの心と共に。

「・・・・・・明神、さん?」

後ろに付いてくる様子のない明神を訝しんで姫乃が振り返って呼びかける。すっかり宵闇に沈んだ桜に囲まれ、幼い彼女はいっそ儚げに見えた。

「あぁ、今行く」

少し不安げな彼女を安心させようと明神は笑い、両手に荷物を抱え直した。

時間はあっという間に過ぎ去ってしまうものだ。ならば、せめて来年の桜を見るときまでは大切に大切に刻んでいきたい。

君と共にいられる未来が限られているのならば尚更に。

見上げれば、空には白くて細い月が浮かんでいた。

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