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きゅっきゅと油性マジックが音を立てる。カレンダーの裏紙にでかでかと書いた10桁の数字を確認して、男はおもむろにそれを壁に貼り付けた。黒電話の丁度真上にだ。

「これで分かりやすいでしょ」

「そうですね」

返事をしつつ雪乃はこみ上げてくる笑いを噛み殺す。男の書いた電話番号があまりにも大きすぎるからだ。多分10mくらい離れていても余裕で見えるんじゃないだろうか。娘の姫乃が時折書く落書きよりはるかにと大きい。

「何かあったらすぐに連絡してくださいね。番号はこれで」

ばんばん、と男はその張られた紙を片手で叩く。そんなに主張しなくても文字の大きさだけで十分目立っているのだが。雪乃は小さく笑った。

「・・・・・・そうさせてもらいます」

「どんな内容でも超特急で飛んできますから」

「わかりました、その時にはよろしくお願いします。でも、貴方もそんなに暇じゃないんでしょ?」

「大丈夫ですよ、なんてったって雪乃さんが最優先ですから」

ね、と男は歯を見せて笑った。彼が本当に自分を心配してくれていることがわかるので、雪乃はただ頷いてみせた。

「ホント、くだらないことでもいいですから。電球替えてくれーとか、風呂掃除してくれーとか」

「そんなに出入りしていると、また湟上さんに叱られますよ」

雪乃には「無縁断世」という能力が宿っていた。その力故に陰魄に付け狙われる羽目に陥っている。本来ならもっと閉鎖された場所で一生を終える運命だったのだが、雪乃はそれに真っ向から抗った。その意思をこの男、明神と湟上が汲んでくれたからこそ、こうやって娘と一緒に小さな村の片隅に文字通り隠れて生活することができている。わざわざ隠遁しているのにお前が頻繁に来てどうするんだ、と前回きつくお灸をすえられたばかりだった。

こんくらいは大丈夫でしょ、と男は何でもないことのように笑う。

「俺みたいな男でも男手として役に立つこともあるでしょ。本当に遠慮しないで電話してくれていいから」

それじゃ、と明神は三和土に降りた。雪乃は黙ってその背中を見つめている。・・・・・・大きな背中。この背中を見るたびに胸が小さく痛むのは何故だろう。

玄関の戸に彼は手をかけ、がらがらと音を立てて開けば隙間から赤い夕焼けが流れ込んでくる。・・・・・・恐ろしいくらいに鮮やかな赤だった。框に立っていた雪乃も振り返った明神の横顔も同じように朱色に染まっていた。彼は一瞬複雑そうな顔をして、それでも朗らかに言った。

「何かあったらすぐ連絡してください」

念を押す明神に雪乃はどこか寂しそうな笑顔で頷いた。



それから3週間ばかりが過ぎた。その日は朝から雨が降り続き、明神は霞む窓の外をぼんやりと眺めていた。手にしていた頸に関する書物も先程から一向にページが進まない。視線は相変わらず窓に、正確には窓際の電話に注がれたまま。

あの日から一向に鳴らない電話。便りがないのは元気な証拠とはいうが、雪乃に関してはどうだろうか。

何もなければいい。娘の姫乃ちゃんと母子二人で穏やかに暮らしているなら。幸せな毎日を送れいているなら。・・・・・・けれど少しでも不安があるのなら。

古びた和綴じの本を閉じると、明神は行儀悪く座卓の上に肘を乗せた。そのまま指を組んで顎を乗せる。視線の先は相変わらず電話から動かない。

------頼ってくれればいいのに。

明神はそう思った。そうだ、頼ればいいんだ。まだ歳も若いのに子供一人抱えて、その上陰魄にまで付け狙われて。一人で背負い込めるものじゃないことは誰にだって分かる。だから他人に頼ることは恥ずかしいことじゃないし、遠慮するようなことでもないんだと。心の中の彼女に何度も何度も繰り返す。

陰魄から彼女を守るのはもちろん自分の仕事だが、それだけの付き合いだとは明神は思っていない。それはただのお節介かもしれないし、彼女も十分頑張っているから必要はないのかもしれないのだが、それでも何かしてやりたいと思う。

下心なんてない。同情でもないし、見返りを求めている訳でもない。ただ彼女の助力になれればと望んでいるだけ。

「------いや、そいつは嘘だな」

思わず自分の詭弁に突っ込んで、そして苦々しく笑う。

自分は彼女に良く思われたいのだ。好かれたいし、頼りにされたい。それは既に彼女を特別な目で見ている自分の願望だ。・・・・・・決して叶うことない。

ゆっくりとついたため息に、胸の奥が痛む。

そうだ、この想いは叶わない。叶ってはいけない。知られることも許されない。ただひっそりと埋葬すべき感情だ。

もう少し、と明神は一人思う。

もう少し自分が若かったら、或いはお互いの立場がもう少し違っていれば、少し強引な手を使ってでも明神は彼女の世話焼きを買って出ただろう。もっと彼女に踏み込むこともできたかもしれない。けれど、そうしてしまうには背負っているものがあんまりにも重すぎた。

何よりも、彼女は今でも遠く離れている旦那を愛している。そこに無謀に踏み込むほど明神も暗愚ではない。

------あぁ、それでも。

明神は目を閉じた。

臆病な自分は何もできない。彼女からの電話をただ待ち侘びることしか。

・・・・・・雨はまだ当分止みそうになかった。



「おでんわ、するの?」

娘にそう聞かれて、雪乃はようやく電話の前に立ち尽くしている自分に気がついた。随分とこの体勢でぼんやりしていたのか、スカートを握り締めて見上げている姫乃の目は期待に溢れていた。

「おじちゃんに、おでんわする?」

時折ふらりと来ては遊び相手をしてくれる明神に姫乃は随分と懐いてた。まだ「おじさん」という歳でもないのだが、そう呼ばれても彼は嫌な顔一つしない。そして、そんな彼に雪乃も好感を持っていた。

「お電話はしないよ。来てもらうご用事ないでしょ?」

「えー・・・・・・。じゃあね、じゃあひめのとあそんでって。ほら、ひめののくまさんもさびしいって」

一生懸命理由を考える娘は何ともいじらしい。そういえば、今抱きかかえているクマのぬいぐるみも明神が持ってきてくれたものだった。

「おかあさんも、おじちゃんとあいたいでしょ?」

それは、少しだけ図星だった。けれど雪乃はそっと笑って娘を抱き上げた。

「またそのうちふらっと来るよ。姫乃がいい子で待ってれば」

「ひめの、いい子にしてるよ?」

よっぽど明神を気に入ったのか、姫乃は何度も何度も黒い電話を見ていた。いや、もしかしたら殴り書きのような数字の羅列の方を見ているのかもしれない。明神があれを書くところを姫乃も傍らで見ていたから。

「おかあさん、おでんわしない?」

どうしても諦め切れない娘に雪乃は困った表情のままゆっくりと言い聞かせた。

「あの人も、言うほどそんなに暇じゃないのよ」

------そう、暇なはずがないのだ。

自分が言ったばかりの言葉を反芻して雪乃はそっと娘の背中を撫でる。彼が案内屋という仕事を持っている以上、自分たちにばかり構っている暇はないと重々承知していた。気軽に電話しろと言っていたけれど、彼が家にいる時間なんて実際はほとんどないだろう。

------ほんと、ウソつきな人。

あんな簡単そうに言ってのけるから姫乃が本気にしてしまったではないか。本当に困った人だ、できない約束なんてしなければいいのに。

抱き上げた娘の変わりに雪乃は真っ黒い旧式の電話を見下ろした。・・・・・・指先でダイヤルをなぞってみる。戯れ気分で明神の自宅への番号もなぞってみた。目の前に張られた覚書を見なくても既に10桁の番号は頭に入っている。あんまりにも字が大きいから、ついつい目に付いてしまうから覚えてしまった。ただ、それだけ。実際にかけてみようなんて思っていない。

明神には本当に世話になっていた。自害することも「牢」に籠ることも拒んだ自分のために湟神共々奔走してくれ、こうやって娘と共に生きられる場所を提供してもらったのだ。これ以上迷惑をかけては迷惑極まりない話だろう。 だから自分から電話をするなんてありえない。当たり前だ、これ以上迷惑をかけてどうするというのか。

そうでしょう? と無意識に自分を言い含めていることに気づいて、雪乃はひっそりと笑った。

------分かっている、あの人がついたウソに縋っているのは姫乃ではなく自分の方だ。

自分の運命を通告されたあの日、それでも自分の中に宿った命のために抗おうと心に決めた。不安がなかったといえば嘘だ。無心で頼れる人も近くには居らず、姫乃の父親ですら海外から戻って来なかった。それでも一人きりで姫乃を守らなければならない現実に直面して怖いと思わないはずがない。

だからこそ他人にはそれと分からないよう虚勢を張っていたのに、明神という男はいともあっさりとそれを乗り越えて雪乃をかっ攫ってしまった。なんてずるい男だろう、と思いつつ、その居心地の良さに目を閉じてしまいそうになる。駄目だと分かっているのにこの身体を預けたくなる。

「・・・・・・ホント酷い人ね」

あの人のあっけらかんとした笑顔を思い出すだけで泣きたくなる自分に笑えた。・・・・・・あの数字の列を見るだけでも胸が苦しくて仕方なかった。甘やかして欲しくないのに、意地悪なくらいに優しくする彼が。・・・・・・本当は。


抱きかかえていた姫乃はいつの間にか眠っていた。

座敷の隅にあった座布団の上に寝かせ、そっとその小さな頭を撫でてやる。

「きっとそのうち・・・・・・来てくれるよ」

今の弱い自分では彼に甘えてしまう。そんな自分は嫌だから。せめてあの人の負担にならないように。

・・・・・・コールできない電話の代わりに、雪乃はただそっと彼の名前を小さく呟いた。

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